今村家文書について

 今村家文書は、京都市東山区にある今村家から発見された、歴史的文書群です。
 今村家の初代慶満は、天文18年(1547)に足利義晴を逐って京都に入京した三好長慶の被官人の一人で、長慶の帰郷時に京都代官に任命されました。慶満の嫡男政次(弥七)は、波多野氏に仕えて京都の東の入口である汁谷口を支配、そこを通る塩などの荷物や人馬の通行権をにぎっていましたが、明智光秀の本能寺攻めに与同し(一説では与同したのは慶満とも伝える)、秀吉の怒りをかって伊賀に蟄居していましたが、秀長の仲介で京に戻りました。しかし、家督は次男の忠右衛門に譲り、自らは柳原庄村内に住んで、郷侍として終わったといいますが、孫の舎正は妙法院日厳院の家司を勤めていました。忠右衛門家は代々次名として忠右衛門を名乗り、柳原庄村の庄屋を近世を通じて勤めると同時に、近代に入ると戸長をも勤めました。本文書はこの忠右衛門家に伝えられてきた文書で、上は今村慶満関係の中世期の文書から、下は近代に入って柳原庄村が柳原町と名前をかえる時期までと、地方文書としては珍しく長い時期の文書を含んでいます。文書点数は6000点近くに及びます。
 文書の内容は、今村慶満・政次家の関係文書、および柳原庄村の庄屋文書と忠右衛門家の私文書、さらには六条村・銭座跡村・大西組の関係文書からなっています。特に銭座跡村については専用の小箱の中に、数百点の関連文書が一括して収められており、これまではほとんど不明であった銭座跡村の動向を詳しく知ることができると期待されています。
 当柳原銀行記念資料館運営協議会では、2001年、今村家当主を代表として「今村家文書研究会」を結成し、今村家文書の研究および協議を行っております。